宮城三陸生かき

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宮城かきの歴史

300年の経験と
たゆみない技術改良が
宮城三陸牡蠣を育ててきました。

天然のかきを獲りながら稚貝を放流した、養殖黎明期

宮城三陸で牡蠣の養殖がはじまったのは、今からおよそ300年ほど前だといわれてます。
内海庄左衛門という人が、松島湾の野々島周辺にたくさんの牡蠣が生息しているのを発見し、島に移住。天然牡蠣の採取をする一方で、「採るだけでは数が減る」と、天然の稚貝を拾い集めては海面に撒いたことがはじまりとされています。(伝承、東北水研叢書第2号/1952年)。内海庄左衛門は、牡蠣の採取日を計画し、牡蠣殻や稚貝を撒いて自然の釣り合いを保ったとか。これが他の漁師にも広まって、松島湾の牡蠣養殖の礎となりました。

宮城三陸に適した養殖方法を探り続けた、探究期

1800年代のはじめ、天然牡蠣の現象に頭を悩ませた漁民たちは、稚貝を集めたり松の木の枝に付着させたりして生育しやすい場所に移し、積極的に育成をしはじめました。しかし明治維新の後、牡蠣の需要に生産が追いつかず、「養殖」の必要性が叫ばれます。これを受けて広島から教師を招き技術向上を図ったものの定着せず、1899年に設立された水産試験場により、独自の養殖方法の開発が本格的にスタートしたのでした。やがて従来の方法から一歩進んだ「す立て棒刺棚」が編み出されると、松島湾でのかき養殖は発展し、生産量も増加していきました。

より広くより沖合へとエリアを広げた、発展期

1923年、神奈川で生産性に優れた「垂下式」の養殖法が開発されると、これが松島湾や万石浦に広まり、牡蠣養殖を発展させました。さらに1930年には水深の深い場所でも養殖できる「イカダ式」が開発され、従来養殖ができなかった気仙沼や志津川湾・雄勝湾などにも拡大。さらに1952年には現在気仙沼の主流である「延縄(はえなわ)式垂下法」が開発され、沖合いでの養殖が飛躍的にすすみました。養殖エリアも広がり、次第に現在の牡蠣養殖のかたちが整ってきました。

品質と安全性でかき界をリードする存在へ

牡蠣は、一日に200リットルもの海水を体内に取り込み、たっぷり栄養を吸収する生き物です。それだけに「水」の影響を受けやすいとも言えます。宮城三陸の中でも、閉鎖的水系にある志津川周辺は水の澄んだエリア。また気仙沼は森を育てる試みをいち早く進めてきた土地です。1990年前後からは、無菌海水で牡蠣を浄化する「浄化場」を整備して牡蠣の安全性を高めてきました。宮城三陸の牡蠣が「生食用」として選ばれ高く評価されているのは、環境と設備に裏付けられた安心感があるからこそ。他の産地に先駆けて牡蠣トレーサビリティシステムも稼動し、日本で最も信頼できる品質をお届けしています。

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